初デート

眠りのなか、聞き馴染んだ声に呼ばれ、夢と現の狭間を揺蕩っていた洋平は、現実へと身を引き上げられてゆっくりと目を開けた。

視界の上方の端にチラと赤が映り込む。部屋にあるはずのない色に洋平が首を反らすと、 色の持ち主である赤い髪の男が体育座りをしてこちらをじっと見ていた。やっぱりこの男が自分を呼んだのだろう。 口が薄らと開いていた。窓辺から差し込む秋冷の光と空気を帯びて、男の髪は紅梅の淡い色をしている。

洋平は彼を見つめ返した。朝日を浴びて輝く男の眩さに、眠気で重たい眼を更に細めて。 愛しの恋人がすぐ目の前にいる安堵と幸福感が洋平の心を包む。

恋人もまた、顔の左半分に当たる陽光で伏し目がちに、開いていた唇をいつものように一文字に結んだが、 その表情には普段よりも更に強ばっている印象を受けた。

「はなみち」拙く、洋平は彼の名前を口にした。

名前を呼ばれた彼は玉響に呼吸を止め、目を見開き喉仏を上下に動かせたが、すぐに目付きを戻してふっと鼻から息を吐いた。

「おう」

ぶっきらぼうな返事に洋平は微笑んでいたが、まだ寝ぼけていた脳がようやく目の前の違和感に気付き、彼の口から疑問の言葉を吐かせた。

「なんでいるの」寝起き特有の低く掠れた声で問いかける。

「洋平の母ちゃんに入れてもらった」

花道の返答に洋平はため息混じりに言い直した。

「そうじゃなくて……会う時間が違うだろ」

本来ならば二人は午前十時に駅前で会う予定だった。時計を見ていないので今現在の時刻は定かではないが、体感で午前六時半から七時の間だろう。いくら何でも早すぎる。

花道が返す。「早起きしすぎて」その言葉を続ける前にやや口ごもった。「暇だから来た」

「文句あるかよ」やけに攻撃的な言葉遣いで洋平を見るその目は、言葉に反してどこか繊細な色があった。

「別にないけど……」今しがた起きたばかりだったが、花道の様子から鋭く察した洋平は、言い終えてから再び薄く笑った。

このやり取りは記憶に新しい。このあと、またむりやり練習に付き合わされるかもしれない。

その在りし日の記憶につられて、花道の、母ちゃんに入れてもらった、という言葉を思い出す。

花道限定とはいえ、こんなに朝早くでも当然のように他人を家に上がらせる母親に、洋平は半ば閉口していた。 無論、二人の仲が良いに越したことはないし、こちらとしても色々と手間が省けて楽なものだが、こういう時には困りものだ。 だらしなく眠る無防備な顔を見られてしまっては格好がつかない。許可なく勝手に部屋に入らせるとは、オレのプライバシーなどまるでないじゃないか。

寝顔など今までも何度も見られてきたはずだが、それでも今日に限って恥ずかしく思ってしまうのは、 その今日に「デートの日」と名前がついているからなのだろう、と洋平は思った。それも初めてのデートだ。 初デートの日はそこに恋人がいるのならば初めから終わりまで澄まし込みたい。それが人情というものだろう。

洋平はふと、昨日の己の言動を振り返った。

あの時、言い出したのは自分なのに酷く動揺していた。

長年の片思いの後、晴れて結ばれたが、なかなか都合が合わず、洋平は休日を二人きりで過ごすことができずにいた。 だから花道が退屈を訴えた時、彼は今しかないと思って誘いかけた。

ピタリと立ち止まりこちらを見つめる花道の顔を見上げる。切れ長の目に収められた瞳は太陽の反射でガラス玉のように輝いて、 見ていると吸い込まれそうになった。

何か面白い反応を見せるかと思いきや、花道は再び歩き出し始めて何をするのかと問うてきた。 洋平はてっきり、初めて不意打ちにキスをした時のように初心な反応をすると思っていたので、 平然とした態度に拍子抜けした。だが、よく見ると、夕陽では隠しきれていない、紅葉のように染まっている頬があった。

それを認めた瞬間に、洋平は溢れ出る愛おしさに歯を噛み締めて堪え、こちらも負けじといつも通りの風を装って話した。 ボロが出る前に急いで、しかしそれを悟られないように当日の詳細を決めた。あとは雑談でもして気を紛らわせれば、あっという間に自宅前の通りに着く。

花道と別れた帰り道、洋平はポケットから出した己の手を見た。手のひらがじんわりと汗ばんでいる。 余裕そうに振る舞いながら、内心ではこれ程までに緊張している己を鼻で笑った。

……アイツも同じなんだろうな。

洋平の脳裏に、林檎のような頬をした花道の澄ました顔が浮かぶ。

洋平は小さく笑って、家の戸を引き中に入った。無論、その夜はなかなか寝付けずにいた。

洋平が昨日の回想をしていると突然、静寂を切り裂いて、猫が喉を鳴らしたような音が部屋に大きく響く。

驚きで音の出処に目を向けると、それは花道の腹からであり、彼は自分の腹を押さえていた。

少しの沈黙の後、洋平は寝返りを打ってうつ伏せになると、左手で頬杖をついて花道に言った。「朝飯食ってないのか」

洋平の問いに、花道は頷いた。「……まぁな」

空腹感に襲われて顰めた顔はほんのりと赤い。もう何千回と見せた姿なのに、今日に限って恥ずかしくなるのは、やっぱり彼も同じらしい。

「下に行って食ってこいよ。昨日のカレーの残りもあるぜ」

今頃、洋平の母親はキッチンで料理をこしらえているだろう。花道が二人に加わって朝餉を共にするのは中学生の時分からよくあることだった。 母親は既に、食器をもう一式テーブルの上に並べているかもしれない。

カレー、その単語に反応した花道は目を輝かせ、晴れやかな笑顔を洋平に見せた。太陽に負けないほどの笑顔につられて、洋平も口角を上げる。

ぐう。腹の音を返事として花道は立ち上がり、軽い足取りでいそいそと部屋を出た。大股で廊下を歩き、バタバタと忙しなく階段を降りる音が壁越しによく聞こえる。

その音を聞きながら、洋平は緩慢な動きで体を起こして胡座をかき、ぼんやりと襖を見つめながら頭を搔いた。 花道が動いたことで舞い上がった埃が、陽射しに照らされてキラキラと輝く。

いつもと変わらない朝じゃないか。洋平は胸中で呟いた。

昨夜の緊張が嘘のように和らいでいることに洋平は気付く。緊張で迎える初デートも、それはそれで初々しさがあって良いのかもしれないが、 ヘマをして格好の悪い姿を見せるより今の状態のほうがマシだろう。洋平はどこか他人事のように考えだし始めていた。

花道も今の自分と同じになっているだろうか。

先程に見たあの天真爛漫な笑顔を脳裏に思い浮かべる。見ているこちらまで朗らかな気持ちになる笑顔をしていた。 その笑顔の為なら何だってできると――今までも、これからも何千回と誓えるほどに。

洋平は前髪を後ろに撫で付けて、脱力した笑みを漏らした。大きく伸びをして、やおらに立ち上がる。 恋人と過ごす時間が増えたことを密かに喜んで、洋平は花道の後を追った。