妥協しない男
花道が屋上へと続く扉を開けると、そこには洋平が背を向けて座っていた。
花道が言った。
「この赤点ヤローめ、フケてる場合かよ」
洋平は後ろを振り返ると、花道に返した。
「お前が言えた口かよ。この赤点王」
花道は鼻を鳴らして、洋平の隣にどっかと腰を下ろした。
二年生になって、花道と洋平のクラスは別々になった。花道はバスケット、洋平はアルバイトに勤しみ、二人が顔を合わせることは、 以前に比べてとんと減った。休日に遊ぶことはおろか、夜にどちらかの家を訪ねることも滅多になくなった。 あるとすれば洋平が休み時間に他の友人らと連れ立って、花道の教室へと足しげく通うくらいだ。
もしくは今のように、何とはなしに花道がふらりと教室を出て屋上へと向かうと、 洋平が先客として居座っていることがままあった。これが彼らに与えられた数少ない接触の機会だった。
もし彼らが友人だけでなく、恋人同士にもなったと知る者がいたら、いったいどこに恋人らしい瞬間があるのかと小首を傾げたことだろう。
けれどもこうして隣に座り、授業を欠席したことを互いに冷やかし合う。その時間さえあれば、今の二人にはそれだけでよかった。
花道は吹き抜ける風の心地よさと太陽の眩さに目を細め、ぼんやりと雲行きを眺めた。
うららかな春の昼下がり、雲間から差し込むやわらかな陽の光がシルクのように体を包む。冷たいコンクリートの床にごろりと寝そべると、昼寝にうってつけだった。
花道は話しかけるでもなく言った。
「ヤベェ、寝そう」
「寝れば」
即座に返ってくる洋平の応答。花道は黙して目を閉じた。幾度と交わしたこのやり取りも、退屈さより安心感があった。 洋平の素っ気ない返事は、言葉は違えど「おやすみ」と言ってくれているようで、花道はそれを期待して呟くのだった。
陽光が瞼を透かして、視界を赤橙色に染め上げる。
しかし不意に陰りが差して、花道は目を開けた。
洋平が覗き込んでいた。片手を花道の頭のすぐ横に置いて重心を掛けている。ほんの三十センチ先に洋平の顔があるが、 影が彼の顔を色濃く覆ってその表情は見えない。けれども花道は彼の視線が向くところを、そして彼の意思を悟った。
花道は薄目を閉じた。ややあって、研ぎ澄まされた耳に衣擦れの音が入った。
たまゆらに花道の唇に何かが触れた。暫時の間、薄い唇をやわらかく押して、名残惜しそうにゆっくりと離れたそれの感触を確かめる時間はなかった。
再び衣擦れの音がして、視界が明るくなる。
花道はにわかに起き上がった。胡坐をかいて、隣に座る洋平に改めて向き直った。風が彼の頬を撫でる。不思議と彼の心は落ち着いていた。
対する洋平の相貌は、一見平素と変わらないように映ったが、しかし微妙な差異を花道は感じ取った。飄々とした顔つきをしていながらも、自分の反応を窺っているようだった。
花道は洋平の目よりも口元を見つめた。ついさっき重なったのだろう唇を見ているうちに、ふっと花道の頭にある違和感が浮かんだ。そして彼はようやく開口した。
「……レモンの味がしねぇ」
予想だにしていなかった反応に洋平の眉間が僅かに寄ったが、すぐに元に戻すと平然として言った。
「そりゃそうだろ」
花道はキッと顔つきを変えた。突如として厳めしい面になった彼に、洋平は肩を強張らせた。
「ファーストキスっつーのはなぁ、甘酸っぺーレモンの味がしねーといけねーんだよ!」
がなり立てる花道に、洋平はいよいよ困惑を隠しきれなくなった。それまでの空気感は風と共に去り、いつもの騒々しさが戻ってきた。
腕を組んでぶつくさと文句を垂れる花道に、洋平はがっくりと肩を落とした。
また始まったよ……。心の内で零す。
花道の恋愛に対する幻想と頑固さは常軌を逸している。超がつくほどのロマンチシストぶりは、 傍から見れば格好の冷やかしの的だったが、付き合わされるとなるとこれほどまでに厄介なのかと痛感した。
洋平は気を取り直すと、花道を宥めた。
「つまり、現実は違うっつーことだ。ファーストキスはレモンの味じゃねーし、赤ちゃんはコウノトリが運んで来るワケじゃねー。大人になれてよかったな、花道」
舌先三寸で丸め込もうと図るも、花道は頑として頭を振った。
「テキトー言うんじゃねぇ! 告白は完璧だったんだぞ、ファーストキスも完璧じゃねーとダメだ!」
告白のこと触れられ、洋平はつい顔を顰めた。そのことを口にされると、どうしても複雑な気持ちになる。
告白のつもりではなかった。
桜の花びらが舞い散る下で、浮気な風に背中を押され、洋平は彼の未来を、彼の幸福を祈った。いつも通りの口振りで、いつも通りの顔をして。
いや、確かにこれは愛の告白だ。ずっと前から洋平は花道を深く愛していたし、小粋な言い回しの裏で秘めていた熱い想いを伝えた。 言い終えた時、洋平の心は晴れやかで、一抹の後悔もなかった。
花道は目を丸くして洋平を見つめていた。洋平が照れくささから憎まれ口を叩こうとする寸前、やにわに花道は洋平の手を取った。
「洋平の気持ち、伝わったぜ。オレのこと、そんなふうに思ってくれてたんだな。オレも洋平とずっと一緒にいてぇ」
目に涙をためて言う花道に、洋平は仰天した。
こうして洋平はめでたく花道と恋人になった。まさにラブ・ストーリーは突然に、だ。
願ってもない結果に欣喜雀躍する反面、心の準備もないままに意図せず告白が成立してしまったことは、洋平に複雑な心境を抱かせるのだった。
そしてこれが花道の異常な恋愛観に拍車をかけてしまったとは、今の洋平には悔やまれてならなかった。
洋平は言った。
「そうは言ってもよぉ、もう取り返しはつかねーだろ。ファーストは『初めての』って意味だぜ? なかったことにはできねぇよ」
「……アレは事故だ」
「ハァ?」
洋平は思わず聞き返した。
花道は腕を組んだまま続けた。
「さっきのはオレの口に洋平の口がぶつかっただけだ。ただの事故だ、ノーカウントだ」
「テ、テメェ……」
二の句が継げないとはこのことだ。なんて都合のいい完璧主義者だろう。
「つーワケで洋平、もう一回しろ」
花道は膝頭に手を載せて、グッと顔を突き出した。
手を繋ぐ妄想だけで頬を赤らめていた男の言動だとは思えない。洋平は溜息を吐いた。
「お前なぁ……諦めろよ。さっきので分かっただろ。どうやったってレモン味にはならねーんだから」
「いーやオレは諦めねーぞ! 妥協しない男・桜木!」
一歩も引く気はないようだ。洋平は困り果て、整髪剤で固めた髪を撫で付けた。
「ムリなもんはムリなんだって。レモン食わねー限りはよ……」
洋平の発言で、花道の顔に光明が差した。
「そうだソレだ!」
花道はポンと手のひらを拳で打つと、サッと立ち上がった。
「ついて来い」
そう言って花道は出入り口の方を顎でしゃくると、ポカンとした顔の洋平を置いて歩みを進めた。
二人は一階まで降りると、棟と棟を繋ぐ渡り廊下へと出た。開かれた渡り廊下の隣には中庭があり、その壁際に休憩スペースとして自動販売機とベンチが据えられていた。
花道は自動販売機の前に立つと、ポケットの中をまさぐり、なけなしの百円玉を取り出して投入口に入れた。
ボタンを押すとガコンと音を立てて何かが落ちる。花道は取り出し口から拾い上げたそれを洋平に手渡した。
「飲め」
洋平は渡された物を見た。黒地に白いドット柄のラベルの中央に、レモンのイラストが描かれたアルミ缶。 お馴染みのレモンソーダだ。キンキンに冷えたそれは結露を纏い、洋平の手を濡らす。
屋上で花道が手を打った時から、彼の腹積もりは察していた洋平だったが、乗り気にはなれなかった。
「お前が飲めよ」
「バカモノ! オレが洋平にチューしてそれでレモンの味を感じなきゃいけねーんだぞ! オレが飲んだら意味ねーだろーが!」
「うっせぇんだよ一々……」洋平は舌打ちをした。
自分は花道と違ってロマンチシストではないと自認していたつもりだったが、それでも勇気を振り絞って交わした初めてのキスを無碍に扱われ、 あまつさえ無かったことにされるのは気分の良いものではなかった。
とはいえ協力しないことにはこの茶番劇は終わらないだろう。洋平は渋々とプルタブを開け、一口飲んだ。 強い炭酸が口内から喉奥を刺激して流れ込んでいく。レモンの甘酸っぱさが今の洋平には不快だった。
洋平が飲んだのを認めると、花道は周囲をぐるりと見回してから意気込んだ。
「よし、さぁ来い」
少し屈んで待っている花道に、洋平は白けた目を向けながらも爪先立って彼に唇を重ねた。
初めのキスよりずいぶんと乱雑だったが、花道は崇高なる目的を達成させることに夢中で気にも留めていなかった。
しかし、洋平の顔が離れると、花道の表情は不満げに変わった。
「ぬぅ……全然レモンの味がしねーな……」
言って花道は自分の唇を舐め回した。色気も何もない動作に、洋平は呆れて口をへの字に曲げる。
「ほんのちょっとだけするけど……こんなんじゃ足りねー。おい洋平、もっかいしろ」
背中を曲げて待ち構える花道。洋平はとうとう我慢の限界を迎えた。
妥協しないというのなら、こちらも徹底的にやるまでだった。
出し抜けに花道の胸ぐらを掴み、勢い強く引いて噛みつくように唇を合わせた。舌先を無理やり花道の唇にねじ込ませ薄く開いていた口内に突っ込む。 耳元で花道のくぐもった、素っ頓狂な声が聞こえたが、彼は構わずに舌で花道の歯列をなぞった。
花道の荒い鼻息が顔にぶつかる。彼は硬直状態にあるのか抗おうとはせず、洋平が舌先で自身の口内を弄ぶのをそのままにしていた。
固まっている花道をいいことに、洋平は舌を奥へと進ませた。そして花道の舌を探り当てると、絡みついた。
「っふ、んぐっ!」
未知の感覚にようやく花道は我に返り、洋平を突き飛ばした。圧倒的な力に洋平は為す術もなく尻もちをついた。
「な、なにしやがんだテメー!」
茹で蛸のように真っ赤な顔で、花道は洋平を怒鳴りつけた。口の端から涎が垂れているが、そんなことを気にする余裕はなかった。
対する洋平は濡れた唇を袖で拭うと、挑発的な目つきで花道を見上げた。
「お望み通りの結果だろ? それともまだ物足りないのか?」
煽られ、花道は怒りで再び我を忘れて洋平に掴みかかった。もはや口の中に広がる、理想的な甘酸っぱさなどどうでもよかった。
「このドスケベ野郎が!」
「ハ! 散々求めてきたのはどこのどいつだよ、この淫乱!」
「ムギー‼」
お得意の頭突きをお見舞いしようと花道が洋平の頭を両手で挟み込む。洋平はせめてもの防御として十字に重ねた腕を額の前に固めた。
騒ぎを聞きつけた教員が飛んでくるまで、二人の取っ組み合いは続いたのだった。